昭和50年07月20日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっ  ても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなけれ  ば火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 愈々信心の光を世に現わさなければならない。そういう逼迫したものを、最近の世情から感じます。信心を頂いておると言う事だけではなくて、それが信心の光にならなければならん。信心の光というのは、只信心をしておりますと言うので、光が頂けるのではない。確かにカンテラに油がいっぱいあっても、芯がなければ火が灯らぬ。問題はその芯なんです。問題はその心を起こすのです。
 おかげを受けると言うのでなく、光を受けるという信を起こすのです。そこから火が灯りだす自分の心も明るくなる。家庭が明るくなる。今まで気付かなかった自分の心の中が、信心の光によって愈々はっきり解って来る。信心とは私は私自身がわかる事だと思う。只教えを聞いただけで解るのではない。理屈では解る。けれどもそれを本当にこの、目の辺りに見ると言うものがなからなければいけない。それが自分の心の中に光が灯ると、自分ではっきり解って来る。
 真っ暗くしとっては何にも分からん。そこで自分の心の中に光を頂くと言う事が、まず先決である。求道と道を求めると申しますけれども、手探りではわからない。いや手探りでは大した所は解らない。そこに光を受けるから、その道がはっきりして来るのである。だから先ずは光を頂く事。為には先ず一心発起、光を頂く事に精進さして貰わにゃいけん、カンテラにどんなに油が一杯あっても、それでは火は灯らない。
 例えばどんなに此処に効く蚊取線香があると言うても、火が灯らなかったら、煩わしい蚊は落ちません。蚊取線香があると言うだけではいけません。どんなに金光様のご信心が素晴らしいんだと言うても、火が灯らなければ、煩わしいものは落ちません。火が灯る所から、自分の周辺に言うなら有難い事ばっかりが起きて来るのです。煩わしい事が無くなって来るのです。
 昨日から沖先生の、本当に尊いお話を聞かせて貰った。もう本当に是からの合楽はこういう信心に、進んで行かなければならないなと、私しみじみ思うた。お話の半ばに何度も感動した。先生が試験をお受けになる。それこそ幸か不幸か受験票を忘れてしもうておられた。それこそ何年がかり勉強して、愈々晴れの試験場に入った所が、それを忘れて来ておった。どうなる事だろうかと、話を頂き乍ら固唾を飲む様な思いで聞かせて頂いておったら、その夜御本部参拝を思われた。
 そして倉敷から六里の道を、夜道を歩いて参拝をされた。私はその辺の話を頂いた時に、もう自分で自分の表情がくずれておる位に感動しました。本当に私は思うのですけれどもね、神様のお心が分ると言うか、神様のお心を思う時に感動するです。私は話そのものではなくてその時に、神様がお感じになったであろうと言う事です。あれ程お取次ぎを頂いてお願いをして、そして勉強をさせて頂いたのに、折角の試験も受けられなくなった。神も仏もあるものかと、それでお終いになっておったかも知れない。
 そこに沖先生の何というでしょうかね、一つの生まれつきですね。素晴らしいですとても真似は出来ない。是はそれぞれに性格を持っておりますから、どんなに素晴らしいお話を頂いてもね真似は出来ません。矢張りそれはその人の物なんですから。あんなに爽やかなまでの心の状態と言うかね。すっきりしたと言うか、純と言うかお参りになられる途中に、様々な難儀があったお話を頂きましたが、そういう障害を物ともせずに、御本部参拝をなさっておられる。
 私は心の中に光を受けるというのは、そういう生き方だと思うです。蚊取線香に火が灯ると言うのはそう言う様な事だと思うです。此処でも先日総務の御用を承っておる高橋さんが、一週間余りの間にお店の方が一寸した事故を起こした。追突事故です。まぁ相手の方が大変良い方だったから、おかげを頂いて、十何万位のそれで済んだ。それからまた二三日して、支店の方で泥棒が入った。その時もやっぱり十五万ばっかりお金を盗られた。お店のそこの支店長の方と、責任者の方と二人でお詫びに出て来た。
 本店の方からその時に、高橋さんが思われた事又言われた事。始めの間はそうも思はなかったけれども、そう言う事が矢継ぎ早に起きた時にハツと気が付いた。是は只事ではないぞと言うのである。それは、あんた達が不注意であったからとかと言う、是は只事ではないばい。あんた段心配せんでも良い。これは確かに間違いなく、神様の御都合に間違いはない。と言うて二度目のそうした事故の時に、わざわざその事のお礼のお届けがありました。事故を起こして十五万ばかり取られて。
 又次に十何万現金を泥棒に盗られた。考えて見るとほんとに信心させて頂いておる者は、馬鹿のごたるだろうと思うです。信心のない店の方が思うたじゃろうと。家の大将はちった馬鹿じゃなかじゃろうかと。しかしそう言う様な信心が、いつの間にか育って来ておる。決してお天気の日ばかりじゃない。雨の日もありゃ風の日もある。雨の日は困るとかお天気の日は有難いとかと言う事じゃない。
 昨日私沖先生の話を聞いて、有難い素晴らしい事だなと思った事は、人間はそもそも幸せになる様に出来ているんだと。生また時から人間は絶対幸せにならなければならない様に出来ているんだ。所がです幸せどころか、私のごたる不幸の者があるじゃろうかと言う様な人が、沢山この世の中に満ち溢れておると言う事です。そこで信心とは絶対のもの神様は幸せを下さってあるのですけれども、その幸せを幸せとしきらない所にです。私は信心があると思うです。
 結局それはどう言う事かと言うと私が悪いのです。そういう難儀な思いをしなければならない元は、誰彼じゃないあなたにあるのです。だからあなたにある、自分にあると言う事が、自分の中に心の光が灯っていないと、それが解らんのです。そして段々おかげを頂いて、それこそ有難づくめ、結構づくめの中に、過ごさせて頂ける様なおかげを頂いた時、初めて天地の親神様が御満足だと言う事ではないでしょうかね。
 そこで私共は先ず手始めとしてです。世間では困った事だと言う、悲しい事だと言う難儀な事だと言うけれども、その難儀の本質と言うものが分らして貰うと言う。それこそ高橋さんじゃないけれども、金の三十万近くも失う様な事になってです。是は只事ではない、是は神様の御都合に違いない。まぁ言うならめぐりのお取り払いに違いはない。是は何か昨日沖先生の話しを聞くと、お気付けと言う事。苦労と言うものはない。私共はそのお気付けと言う事はまた修行とも思う。
 お気付けを頂いたんですから、気付かなければいけんのです。それが自分の中に光がないとわからん。その辺が翻然とか、どうか解らんけれども、只事ではないと言う事だけは分った。そして又漠然とではあるけれども、おかげを下さろうとする、より信心を分らして下さろうとする、神様の働きである事だけは分った。だから店の者を責めなくて済んだ。まぁこれから先は、沖先生ならお話しにならん所でしょうけれどね。私共はそれから先が聞きたい。そういう修行をしたら後はどう言う事になるだろうかと。
 実を言うたらそこまでで良いのです。それからまた二、三日致しましてからです。丁度二十日の小倉の御大祭でございました。私がこんな状態ですから外に出れません。それで高橋さんが幸い小倉の方へ支店がございますので、あちらに二三日おきに行かれるのです。それで十日位前から私が、小倉の代参を高橋さんに頼んでおったんです。丁度十日でございましたね。所が十日の日にのっぴきならないお店の用事が出来た。然も社長が行かなければ出来ないという用事が出来た。
 あゝいう時に実は先生、んな訳ですがと言うたら、あゝそんなら小倉の代参は、私は誰さんにお願いしょうと言う事になっとったでしょうけれども、それを全然言われなかった。十日も前から言われておっての事であるから、それを黙って受けてそして小倉参拝をして下さった。そして訳を言うて奥さんを出されたんです。それはもう本当にそれはそれは大変な問題でしたんです。
 まぁ全額にすれば百二十万ばっかり出さんならんという問題でしたけれども。所がね奥さんがそちらの方へ行かれたから、先方では大変気嫌が悪かった訳です。社長はどうしたかと言う訳なんです。けども実はこうこうという訳で、奥さんが参りましたらそれこ今迄とは、天地がひっくり返る様に話が変わってしまった。それから数時間後にあちらの家内がお礼に出て来ました。
 そして此処へ出て来ましたけれども、一時ばっかり物が出なかった。それは、百万あまりのお金を出さんで済む様になったというおかげじゃない。それ迄の、それこそ神様の前後しての働きの微妙さと言うか、妙なるまでのと言うか、その神様の働きを目の当たりに、見たり聞いたりして来た訳です。成程お父さんが、一にも神様二も神様と言うが、こういう大事な事を、女にども任せたと、不足を思うておったけれども、成るほどお父さんが、いつも言う様に。
 神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰せられるが、本当にそうだと言う事を、もう目の当たりに、見たり聞いたりして来た訳です。だからその侭ここにお礼に出て参りました。私は目の当たりに神様のその働きをね、私は見る事だと思うんです、聞く事だと思うんです。こんなにも一分一厘間違いのない働きの中にあるんだと言う事が分るから、難儀を難儀と感じんで済むのです。
 そういう働きの中に、親先生御取次ぎの働きの中に、その御取次ぎの圏内の中に、この難儀もあるんだと分かるから、お礼が言えれるのです。四神様の御時代にある方が、お伺をした。金光様もし例えば私の子供と、他人の子供が目の前で転んだ場合、どちらを起こすのが本当でしょうかと言うて尋ねた。いやどちらを起こすのが信心でしょうかとお伺いをした。そりゃ自分の子供を起こすとがほんなこつくさ、けれどもね信心でそれを、どちらが信心かと言うたら、他人の子供を先に起こすのが信心じゃと仰った。
 そういう気持ちになれば、お前の子供は神が起こしてやると仰る。私はそういうみ教えを頂いたからと言うて、本当に他人の子供を先に起こしてやる様な心というものは、そう簡単には出来るもんじゃないと思う。神の用を足せば氏子の用は、神が足してやると仰せられるが、そう簡単に神様の用、神様の用とばっかりは出来んのだけれども。又心はすっきりとしないけれども。結局こうする事が信心だという方を取る稽古をする事だと思うです。自分の心の中に他人の子供と、自分の子供が一緒にこけた。
 そんなら何と言うても、自分の子に、先に手が出るのが本当なんだけれども。それを日頃頂いておる、いうなら他人の子供を先に起こすのが信心じゃという事を頂いておるから、それが出来るのです。そして初めて成程神様は、他人の方を先にすりゃこちらの事は、自分の子供は神様が起こして下さると言う事実を、お互い知らなければそれを体験しなければ、神様はわからんとと同じ事です。それが分っとるだけじゃ。
 高橋さんの心の中にも実はこんな訳だけれども、と思われたに違いはないけれども、神の用を足せばが、先に心の中に閃いたわけです。それがスッキリした物ではなかっただろうけれどもです。自分が行っとったらどう言う事になったか解らなかったけれども、家内が行ったおかげでです、そういうおかげになって来たと言う、おかげを目の当たりに見せて頂くのですから、聞かせて頂くのですから、成程神の用を足せばと言う事を、愈々本気で出来る事になるのです。
 初めからそうスッキリした事ばっかり出来るはずはない。御用をさして頂く。神の用を足せばそれは成るほど真心も欠けておるでしょう。心の中ではいやいやの気持ちがあるかも知れません。けれどもそういう所が泣く泣くと言うのじゃないでしょうか。泣く泣く辛抱すると言う事が、信心には必要です。三代様の御述壊のお言葉の中にもございますね。初めの間は辛うて辛うて、よう泣きましたが、親様が仰せられる事だからと思うて、泣き泣き辛抱いたしましたと。
 辛抱しておりましたら、思う事もなくなり、欲しい物もなくなり、有難うして有難うしてという世界が開けて来ておられるのです。然もどれだけお礼を申しても足りませんのじゃ、お詫びばかりをしておりますと言う、もう信心のギリギリの極地という様な心が開かれておられるのも、矢張り泣く泣く初めの間は辛抱なさったんです。我情我欲を離れてと言うが、もう正しく我情我欲を離れなさった姿です。我情我欲を離れた向こうには、有難うして有難うしてと言う世界があるのです。
 小さいまだ十三歳位のお子様ですから、遊びにも行きたかったろう。とても辛抱しきれん様な時もおありになっただろう。それを親様の仰せだからと言うて、辛抱された所に金光様の信心があるんですね。そういう内にです。まず思う事がなくなって来られた。思う事これが我情なんです。あゝしたいこうしたい。そのあゝしたいこうしたいが無くなつて来た我情が取れた。欲しい物が無くなって来られた。いわゆる我欲が取れておいでられた。私はね本気で御道の信心は、ここん所を頂かにゃ駄目です
 。冗談のごと私だんおかげ頂こうち思うてから参りよるてんなんてんち言う人があります。そりゃやっぱりそうでしょう。本当に或いはそうかも知れません、けれども結局信心の稽古、信心を頂きに来ると言う、姿勢をまず取らねばいけない。そこにはおかげがあんまり問題じゃなくなって来る。我身は神徳の中に生かされてある。カンテラに油が一杯貯まっておっても、芯が無ければ火が灯らんのです。
  どんなに有難い金光様の信心がありがたい、素晴らしい、の信心とは金光教だと言うてもです。本当に我身は神徳の中に生かされてある実感こそが、私は素晴らしいんだと思うです。それにはね皆さん我情を取らにゃいかんです。第一あゝしたいこうしたいという思いを取らにゃいかんです。そりけんならうごとなるじゃいかんです。それこそ一生懸命、蚊取線香になる稽古をする事です。
 福岡の先代は馬鹿と阿呆で道を開けと四神様からお頂きになられたと言う。馬鹿と阿呆の代名詞の様に言うでしょう。あれはちっと左巻だからと蚊取線香の事です。だから先ず蚊取線香にならにゃいけんです。と言うて私が一人じっと辛抱しときゃよかけんで、私が馬鹿になっときゃ良いからではいかんです。それが神様に向けられるそれが今日は、信心せよ信心とは、我が心が神に向かうと言うのは、そう言う事だと思うです。ただ柏手打って拝むと言う事じゃない。
 私一人が馬鹿になっときゃ良いと言うのではいけません。本当に一生馬鹿で終らんならんです。それを神様に向けるから、我が心が神に向うから、神様もまたこちらを向いて下さるんです。神様を、後の方からども拝みよったっちゃ駄目。神様にこちらを向いて貰わにゃいけん。金光大神を表すと言うても、どんなにバタバタした所で、神様が向こう向いてござるなら現われちゃ下さらん。
 だから現すのじゃない。現われて下さるためには、どういう信心をしたら良いかと言う事なんです。現われて下さらんでんよかと思うたっちゃ、金光様の方が現われて下さる、言わば、あり方と言うものが、この今日私が言う信なんです。金光様が現われて下さる世界。そういう世界に火が灯る。そういう一角に愈々明々と火が灯る。そういう光がです。日本中ではない、世界中に灯る様にならせて頂かなければいけない。
 世界は闇なりとこう仰せられる。もう今こそ私は世界は闇の夜に、とまぁ言うても良いと思うです。悪い事が平気でまかり通っておるのですから。成るほど天地の親神様が、本当に心に粟粒を感じる様にゾッとする様な危機を、天地の親神様ご自身が感じておられる時です。それを私は寒天危地と頂いた。天が寒い思いをしておられる。地上は可愛いい難儀な人間氏子の世界です。
 もう危機に頻しておると言う事なんです。寒天危地神様の願いとしては、神様の思いとしてはこの世の中を、ほんとに有難い勿体無い光の世にしたい。歓天喜地にしたい歓天とは天の歓びと書く。喜地とは地上の喜びと言う事。氏子がおかげを頂いて、助かって有難い勿体無いの生活をする。いわゆる語呂は歓天喜地だけれども、どちらも。その神様の願いを願いとして私共が、お道の信心させて頂く者がです。
 只知つております解っておりますのじゃない。その傍らに神様の働きを見聞きする体験を頂かして貰うて、愈々信心の精進に努めなければいけないと言う事でございます。最近合楽では表行と言う事が全廃されました。色々な水を被ったり断食をしたり、様々な修行をしておった人達が沢山ありました。けれどもここ一年一寸なりますでしょうか。表行と言う事の、本当に詰らない事が分かつて来た。
  例えば表行なんか出来ると、確かにそこに生き生きとしたものを感じますけれども、表行がなくなったら後はすうつとします。煙のごたもんですもう本当にお道の信心は、私は心行一本で行く事だと思うです。もうそして心行と言う事になったら、もう一日中出来るです心行は。私はいつもその心行と言う事を例にとって、お風呂に入る時の事を申します。お風呂に入ったらもう一杯汚し散らかしとる。タオルは向こうに投げ散らかしてある。石鹸はドロドロになるごたるとをそこに置いてある。
 是では後に入る者が気分が悪い、気持ちも悪い自分の心もそれでよかろう筈はない。そこで私が一つ手本を示してから、最近ではお風呂を使わせて頂いた後は、必ず清める事にしとる。気分が良いからじゃない。こうしておったら後から入る人が、気持が良かろうからと思う事が心行です。後の者の事も考えん。是はだから心行じゃないです。ろくそうなかもう石鹸でも決して拭きどもするな。
 拭いたらそれだけ損する。だから石鹸を使うたらこうやって水を切っといて、そして石鹸函には決して入れません。こうさわらけぇとくこうやって。そすとそれはいつも綺麗に水が切れて、気持ちの良い石鹸を使う事が出来る。タオルでもほんなもう絞り切るごとは絞らん適当に絞る。そう言う事を実行しておる内に、私の心の中に喜びが湧いて来るから不思議です。皆さんが例えばタオルを使わせて頂いて、そして上と下をキチッとこうする、気持ちが良いです。
 ある方が親先生が、あぁなさるからと言うて、タオルをこうやってキチッとする、しよる内に喜びが湧いて来た不思議な事です。神様の心に触れるからです有難い意味に於いて。ですからお風呂に入らせて頂いても、便所にやらせて頂いても道を歩きよっても心行は出来るのです。勿論心行とは暑い寒いを言わぬ事。不平不足を言わぬ事。それが言わん事所ではない、思わん様になれるのです。
 暑い寒い何処ろじゃない、暑い時に暑さを感ぜず、寒い時に寒さを感じん程しの信心が出来た時に、初めて心に火が灯ると思うです。本当に、暑さを物ともせずと言うか、暑さが暑さでない。寒いのが寒いでない。そこに不平不足を言わんと言うて辛抱するのじゃない。不平不足を言わんで済む、心の行が出来るのです。皆さんも本気で修行なさらにゃいけません。信心に修行はつきものです。朝参り位のことは修行には入りません。もう当然の事です。当たり前です。
 金光様に朝から晩まであの様なお苦労をかけておるのです。それに対してでも私共は、朝参りの信心が出来なければいけません。朝参りも出来ずしておいて、そして道の云々なんて、おこがましいです。どうでしょうか。愈々お道の信心の上にも、二十六年間ですか。御取次成就信心生活運動が、繰り返されて参りました。愈々おかげの頂けれる、一つの基礎の様なものが出来ました。だからその基礎に愈々新たな金光教とでも申しましょうか、新たな信心が樹立され様としております。
 いわゆる金光大神を世に現すと言う。成るほどそうです。ために私共はどうでもです。私共の力で現すのじゃない。例えば製材所なら製材所のあのノコをです(鋸)人間がいくら押して、こうこ回した所で、大した事はありません。どこにスイッチがあるかと言う事を分りますと、スイッチ一つでゴーツと起こります。天地の親神様が金光大神様がです。言うならば御発動ましまさなければ、大きな働きは出来ません。それを人間の力でこうこうやって押しからと言うて、発動機が起きるはずはありません。
 探すとこを探さにゃいけません。人間は本来、幸せになるのが当たり前なのだけども。幸せでない、難儀が続くと言う所に、何処にその難儀の元があるかと言う事を、先ず探さなければいけません。それがスイツチです。それが真ですそれを押す所に、発動機が回る。天地の親神様が発動まします。金光大神様が踊り出て下さる程しの、おかげになって来ると私は確信致します。
 現すのじゃない現われて下さる。それを私は探そうと言うのが、今、本部でしきりに会議があったり、いろんな話し合いがあったり、皆さんの昨日からの会合なんかもそれだと思うのです。どこにその間違うとれば、どこにスイッチがあるかと言う事を、探さして頂く事がまず先決だと。そういうおかげを頂いて、愈々世の難儀に、金光教の信心者だけじゃない私はありとあらゆる、世界中のです人が助かると言う程しの、教えを持ちそういう信心があるなら、誰彼と言う事はないと思う。本当にそういう宗教者全体がです。それこそ手に手を取って、世界の難儀に当たらなければならない。世界は闇であるその闇に、愈々光を灯さなければならないという風に思います。
 全教を一新して全教一家と言う事は、宗教全体が一新しなければいけないのです。金光教だけじゃないです。仏教にも矢張りキリスト教にも矢張り、以前は生き生きとした、そういう働きがあっておつたんです。だから一新すればおかげになるのです。ですからそういう全教一家と言うか、世界中のそういう宗教者、全体がです手に手を取って、世界の難儀に当たらなければならないと言った様な事を思います。
 今日は二十一節を頂いて、わが心が神に向かうと言う事を聞いて頂きました。只信心しとるから向かうのじゃありません。只馬鹿と阿呆になっとりさえすれば良いと言うのではなく、それを神様に向けた時に、初めて馬鹿と阿呆になると言う。言うならば煩わしいものが落ちて無くなる程しのおかげになって来るという風に思うのです。同時にそれこそ神徳満ち溢れるおかげの中にあっても、私共が我情があっては我欲があっては、神徳の中におると言う事が理屈で解っても、体で解らんです。
 一心発起して愈々本気でです。信心を頂こうと言う姿勢を作らなければいけません。同時に、私は世界が闇だと言われるその闇の世が、今日の状態だという風に感じます。もうグズグズはしておられない。そういうものを感じます。どうぞ皆さんおかげを頂いて、一つ、まず皆さんのお教会で、朝参りから同時に中身が信心に向かうと言う、わが心が神に向かうと言う。それこそ黙って治めると言う事を私は申しておりますがです。もう黙って治めるぐらい素晴らしい事はありません。
 それを言うならば馬鹿と阿呆になると事です。然も馬鹿と阿呆になる、それに火が灯らなければいけません。そこから私が助かり一家が助かり、言うならば私共に関係のある限りの人達が助かって行く様な手立てを、愈々工夫しなければならないという風に思います。火が灯らねば、夜は闇なりと仰せられる事は、火が灯らなければ信心ではないとも言える訳ですね。
   どうぞ。